めんへらるんるん【日刊】

がちめんへら女子を合法観察できる日刊ブログ

「何も感じない」つらさがあることを知った

研究会で、「何も感じないから辛い」っていう話を聞きました。

親に感情を合わせて、それが普通だと思ってて、自分の感情が分からなくて辛い。

生きづらい原因がわからない、辛いけど何でかわからない。ただ辛い。

っていう話があって…。

 

これだけでもう「それは生きづらいよな」って思った。

思ったけど自分はそうじゃなくて、自分はそういう「感情がわからない」辛さは感じて無くって、こういう感覚になることって普段そうないから不思議な感覚。

 

僕は感情爆発させて生きてる(と思ってる)。

それとなく親に調子を合わせることはあっても、自分の部屋に戻ってひとりになったら「さっきのお母さん何あれ!?わけわかんない!こっちの気持ちも知らないでさ!」って怒ってドバドバとTwitterに呟いたりとかの生活だよ。Twitterが無かった時代のときは、鍵付きの日記帳に書きなぐったり、扉を乱雑に閉めて、怒ってるからねアピールしてました。心が「無」になることがほぼゼロ。

これはこれですっごく疲れるから辛いけどさ、逆って…。無感情って…。自分の気持ちが分からないって…。想像したらゾッとする。暗黒の世界感ある。

 

辛いけど理由がわかんないって、生き地獄みたいだよ~…。病んだ時は病んだ原因から距離を置く(例えば仕事を一切しない)っていう手段がムズカシイってこと?僕だったら即「しにたい」にたどり着いてしまう気がする。

過去に休職だと告げられた時に「あ、楽になれるかもしれない、よかった」ってほっとしたことを覚えてます。もし無だったら、それがナシなら、前向きになれなかったと思う。

 

感受性が強過ぎて生きづらいっていう僕に「辛そうだね」と言われたところで、感情が分からなくて生きづらい人には「理解してないよ、出来ないよ」って思われるかもしれないけど、そういう生きづらさがあるって知れただけでも僕は参加してよかった。

 

あと、生きづらさって、無いものねだりの話でもないなって僕は思った。

仮にね、現実では無理な話だけどね、「無感情をあげるよ」と言われても僕は「いや、いいです…」って答える。逆に「あなたの怒りを引き取りましょうか?」と提案されても「いや、いいです…」って答えると思う。

言葉にしづらいな、なんて言ったらいいのかわかんないな、仮にこれで楽になったとしても、解決方法に「これじゃない感」があるのと、今の自分を形作ってきた過去とか経験が吹き飛び去って行ってしまうような怖さがある。もちろん生きづらいんだけど、楽になりたいんだけど、自分自身の気づきとか心の変化で向き合っていくしかないような感じ。

あ、陶芸みたいなものかな。自分で粘土をこねたり水加えたり、空気ぬいたり、伸ばしたり縮めたり曲げたりして、自力でなんとか作っていくことに僕は価値を感じる。陶芸の先生に「君、ちょっとどきなさいな、はい、こうしてこうして、はい良くなったよ~」って仕上げられてできた湯飲みって「これじゃない感」ありません?

 

「そっか」って気づいて自分でなんとかやって、自分の生きづらさと向き合っていきたいと思った。そう思えたのは研究会で持ち帰ってきたことを自分の中でこうやってアレコレ考えたからだな。

あと、感受性強いって結構”生きてる感”が強いと思った。怒ったり泣いたりするとすごく、自分が生きていることを感じる。自分が生きているのか死んでいるのかわからないってことがない。あとブログネタになる。だからこれはこれで、生きづらいけど、1%くらいはいいこともあるのかなって思うと、少しだけ自己肯定ポイントが上がった。

 

「参加して終わりじゃなくて、そこからどう思ったか、どういうことをしたかが大切なんですよ~」って聞いたけど、こんな感じなのかなあ。