どの道も究められないどのみち
いっぱい趣味持ってるし、練習したり探求したり、たまにゲームで同じクエスト2時間ハムったりもするんだけど(私のやってるゲームでは、ひたすらクエストを回すことを回し車を回し続けるハムスターに例えた…のか「ハムる」という。おもろい)、やりこみというかマニアというか、最高火力値を武器につけるまで粘るというか、そういう「道を究める」っていうのがどうにも苦手で、もう程々でいいっすってあきらめちゃう。
けっこう私自身の大きな悩みで、趣味の世界(カメラだったりゲームだったりハンドメイドだったり)に入っていくとその界隈の人は大抵歓迎してくれて、色々教えてくれて、で、だいたいそうしてくれる人って最前線を行っている人で、自分はそんな人に比べたら全然だなあと勝手に落ち込んでしまうし、好意で色んな事教えてくれるのに「これ以上は別にいいや」って思ってしまって、でも申し訳ないから言えなくて、教えてもらっても頭に入らなくて、「すみません理解できるように頑張れなくて」って心の中で謝罪してる。
究められないけど、反面(かどうかわからないけど)、新しい趣味にはハマりやすい。最近万年筆の特集してる雑誌読んじゃう。一番安いけど評価がよさそうなKAKUNOというのを一本買って、あとは雑誌で超高級なのとか、万年筆愛好家の生活とかを眺めてそれで満足しちゃってる。すみません万年筆が好きとか言っちゃってこの程度で…と、誰に言われたわけでもないけど既に申し訳なさがある。何で趣味で申し訳なさ感じるんだ、つら。私の考え方のせいなんだけどさあ。
「私はそういう楽しみ方でいってますスタイル」を確立すれば変わるのかもしれない。今の趣味も新しい趣味も。程々ですだから中途半端なのか。
私は何がどう撮れたのかわからない時間を楽しむためにフィルムカメラやってて、テクニックはあまり気にしてないし、カメラ機も今持ってるのがすごく好きだから買い替えも考えてないし、あんまり勉強欲は無い。笑 現像はカメラ屋さんがしてくれればいいと思ってるからあまり興味がない。
○○が好きですと言うことにも自信が無くて申し訳なさが心の裏にある。この程度の知識とやりこみ加減で語ってすみませんって思ってる。中途半端ですみません。まわりに究めている人がいると余計に。ごめんついていけなくて。
ひとつの物事を究められる人はすごい。自分に出来ないから余計すごいと思う。
画面の輝度上げて写真見よ
電池持ちとかのぞき見防止とかで、スマホの輝度(画面の明るさ)を下げてることが多いけど、限界まで上げたら予想以上にきれいで、どこの最新ハイスペックスマホだろうかってくらい。写真もすごくきれいに見えるの。
この写真はすごく気に入ってるのだから、見てくれている人がいたら、最大まで画面を明るくしてみてくれるとうれしい。
普段聞き流している曲とか、サラサラ見て行っちゃう写真とか、いっぱいあると思う。私もある。ぶっちゃけこの写真も、サムネイルで見るとそうでも(笑)なかったけど、デスクトップPCで画面いっぱい使って見たらめっちゃくちゃよくて。自画自賛。車に夕日が反射しててキラキラしてて、でも空港や通路はまっくろ。蛍みたいにキラキラ光ってるとこがあるけど、なんでこう映ったか全く思い出せんし心当たりがない。ふしぎ~な感じ。
分量的にはこれだけだけど今日のブログはこれだけ。
誰かに採点されることのない文章
まさにブログ。Twitterもか。誰かに採点されることのない文章だからすごく気楽に書けるし、自分の本性というかあいまいさというか、そういうのも出ちゃってると思う。そこがいいとこだと思うし永遠に採点されなくていい、むしろ採点しないでと思う。
これを思ったのも、わけあって対面で話すことになったおじさんに直接「お前の話には起承転結が無い」とか「勢いだけ」「何が言いたいの?」って言われたのを引きずっているからなんだけど。会話してから1分もたってないうちにそう言われちゃったら「はあ」しか言えなかったけどさ。でも、ブログも最近はほぼ話し言葉に近い感じで書いているから、「ブログでもそうかもしれん」って思った。
採点されていたころは、そりゃあもう起承転結のことをメチャクチャ考えてた。
というか点を取れる文章に寄せていた。
起承転結に加えて、小学生の頃に言われていたことは「かぎかっこ(誰かが言った言葉)で作文を始めろ」で、中学校になって小論文が出てくると「結論から書け」「最後にもう一度結論を書け」でしたし、高校大学のころは「まず、つぎに、そして、で段落を作れ」「言いたいことは〇個ある→一つ目は、二つ目は、と書き進めるのがよし」と教わり、就活で言われたのが「君の履歴書は、構成がプログラム構文みたい。SE向いてるよ」だった。
テストも入試も就活も、行きつく先は採点だの評価だので、誰かのこと、例えば先生とか試験官のことを考えて文章を書いてて、ブログもやってなかったし、「文章で自己表現する」っていう考えが無かったんだろうな。情報をまとめる手段でしかなかった。
今はこのブログを自由~に書いてて、言いたいことけっこう言ってて、自己表現してる~って実感がある。自分のココロ救済してる。「お~よちよち…言いたいことあったんやな…ブログにかいてみるか?な?よちよち」って感じ。
自由にやったらやったで、私の文が気にくわない人とか、得られる情報が無いから価値低いとか、そういう人もいるんだろうけど、別に高得点もらうために書いているわけじゃないから、これまとめサイトとかじゃないから…。文の感じがすきと言ってくれた人もいるから…。って自分に言い聞かせてる。
三点リーダー(…)は単体(3つの点)じゃなくて、6や12の点(……)にして使うやつだとか、「!」のあとは一文字分空白入れろ! とかのルールも忘れてはいないけど、別にいいかなー。ブログだもん。それに紙で読むのとブラウザで読むのとでは読みやすさの違いってあると思うもん。「なってねえなー」と言われても「なってはないです」。小説書くときはルールに従って作文するつもり。
あーあと、偉そうなことを言うと、この書き方をすることで、あえて読んで欲しい人を選んでる。「なってねえなー」でブラウザバックする人にはまあ伝わらないだろうなと最初から想定してる。
声を大にして「みんな知ってくれー!管理職の方ー!主婦の方ー!思春期の女の子ー!」って叫びたいときは箇条書きにもするし、ですます調にしたりとかもね。このとき、点数を取りに行ってる書き方。評価が欲しいと思ってる。
いま(このブログ文)は点数とらなくていいや!の書き方だねー。
評価対象となりえる文章(論文もだしまとめとかも)もとっても大事だと思う。伝わりやすさ読みやすさを考えて書かれる文章がないと、検索結果悲惨だよ。マジ情報が欲しい時に得られないし、自分も恩恵受けてる。
うわめっちゃ読みやすいし、この構成作るとかリンク張る作業とか時間かかってんだろうなースゲー!って思うブログもあって、自分もこのくらいやらねばと思いつつ出来なかったりする。あ、「~たり」は2回使うべきなんだっけ本来は。「~したり~したりする」って感じで。その辺までキチキチとしてない感じが、友達とだべる学生っぽさみたいなのがない?むしろ話聞きやすいみたいな。正しい日本語じゃないのに親しみやすさがあるのも不思議ね。
ま、たまには評価のことを考えずに、自由~な文章もアリなんじゃないかなと思う。あとここまで読んでくれた人とは色々とお話できそうな気がする。
採点されることのない文章だと割り切ると、ラク。
ラクだから色んなことを話せるし、毎日更新できてる。
消えたかったけど今日も消えていない
昨日のブログっきり投稿しなかったら、ホントに消えたように見えてたかもしれない。今日も投稿しているから消えていない訳だけど。
私は消えたいけど死にたくはないんですよね。身の危険を感じたら全速力で逃げたいですし、急行電車が通行するときは黄色い線のもっと内側に立つようにしているし。あと痛いの苦手なんで(冷静なときは)リスカも無理です。おもろいね。
だから私に対して「死ぬな」っていう言葉はあまり効力ないのも、不思議ですね。
「死ぬな!世界はまだまだ素敵な所いっぱいあるよ!居場所はいっぱいあるよ!」って説得されても「せやな!死にたくは無いよ!」です。ほんとに生きているといっぱいいことあると思ってるし、世界はそんなに悪くないと思ってるし、楽しいこともあるし。でも消えたい。とんずらじゃなくって私の存在をゼロにしたくなる。
消えたい消えたい言っている人にかける言葉ってムズカシイですよね。苦を取り除けるわけでは…ないしな…。記憶消したり存在隠滅したりとか神様じゃないと無理なんじゃないかな、というか神様でも無理なんじゃないかな、そういう話聞いたことないし。あ、でもそういう話実は聞いたことあるけどそれも神様が消して回っていたら、それはあり得るか~。まー、ないですよねー。
コメントくださっててありがとうございます。よくあんなヘビーな内容に…。笑
あと、消えたいのに、自分のあの文を読んでくれたの嬉しいと思っている私、矛盾しているというか、謎。謎なら研究すればいいのかなって思ったけど、私はなんだかんだブログ書くことも自分の研究になってます。
ちょっと前まで(2~3年前くらい)はTwitterのアカ消しを繰り返していて、何度も消えてたんですが、やっぱりその頃からずっと消えたいっていう気持ちは持ち続けてるのかなーって思います。
メンヘラの特徴まとめみたいな記事に「SNSのアカウントをよく消す」っていうのが入っているのを見たことがあります。だからけっこう私みたいに、死にたくはないけど消えたいって思っている人いるんじゃないかなーっても思ってます。だから私そんなにレアケースじゃないんじゃないかなって勝手に思ってます。笑
まあ色々ありますけど、今日も消えてないです。おわり
消えたい
失敗しました、色々と…。まあ色々。
今やってる仕事も選ぶの失敗したかなーって思ってるし、最近メンタル崩壊言動を複数人から受けて、心はボロボロ、いつ辞めようかって考えてるし逃げたいし、人間関係もいろいろ失敗してるし、企画から実行に移せていないものがあって申し訳なさでいっぱいだし、体調は安定しないし、ここ2週間でドタキャン2回やっちゃったし、DMでひたすら会おうと言ってくるおじさんはいるし、私がツイッターでフォローしてたあの子は自殺してしまったかもしれないし、躁鬱で色々やらかすし、絵は最近書けてなくて、精神病なのを隠して付き合っている人にはテンション高くて明るい人と認識されてしまっているかもしれないし、「私を見つけてちゃん」というメンドクサイ奴の行動をやっちゃったし、恋人にに暴言吐きそうになったし、病気は良くなる目途がつかないし、書き出したらキリがない。今日も過呼吸になるくらい泣いた。泣いて泣いて頭がふわふわしてきて、訳が分からなくなって、その辺のものを破壊したくなった。カッターは部屋が荒れすぎてて見つからなかった。そうだスマホを破壊すれば執拗にDMしてくる人とも縁切ることが出来るかもしれないなんて、普段なら思いもしないことも考えちゃって。もう自分のこともよくわからない。まあダメ人間なんだろうなっては思える。
いいことももちろんあった、憧れの子と会ってぎゅーしてちゅきって言ってくれた、嬉しかった。それでも私は、失敗まみれのどうしようもない人間で、出来ることも少なくってさ、なんか、自分はダメ人間だっていう罪悪感?合ってる?それがあって。
だからもうね、消えたくなる。
消えて別の人間になりたい。私はしょせんこんなダメ人間、辛いことがいっぱいの居場所にいたのも私がダメ人間だから。うまくいかない人間関係と取り消せない過去の自分の言葉、後悔、逃げたい。
しにたい。
とは思った。何度も頭をよぎった。
でもまだまだ話したい人はいっぱいいるし、会いたい人もいるし、今の恋人とはもっといろんなことを一緒にやりたいし、あの子の応援もしたいし、どうしよう。クズなのにこんなにあるんだよね、なぜか。ね。
どうしたらいいの?
いっかい私が消えればいいの?そしたら人間関係リセットできる?嫌なことから逃げ出せますか?
でもリセットしたくない人もいっぱいいるんだよ・・・どうしたらいいの?
出来ることじゃなくて出来る量を比較してしまう
副題:自分にとっての当たり前とほかの人の当たり前
自分に出来ることじゃなくて自分にできる量を比べて落ち込んでしまう、勝手に。昨日フォロワーさんにリプもらって気づいたかも。
仕事で担当が違うみたいに、ふつーに世の中、役割分担して出来ることやったり出来るようになったりして生活しているのにねー。ゲームでもそうなのにね、ほのおタイプみずタイプくさタイプ、アタッカーヒーラー、力が強い魔法が苦手、あのボスに向いててあのボスには向いてない。って。
私は仕事ではマニュアル作ったり集計表作ったりが得意な方なんですよ。時間も忘れて作ることには没頭できます。1日8時間マニュアル作りもばちこい。
でもミスを正す仕事は苦手なので、ダブルチェックはほかの方にお願いしてました。
これだけだと「ちゃんと自分の得意不得意割り切ってんじゃん!」って思われるかもだけど、ダブルチェックで私のミスが発覚するたびに、「あの人は見つけたのに私は見つけられなかった」と、「ミスを見つける力」で比較して落ち込んじゃってねー。なんでそんな違う土俵で競って勝手に落ち込むのか、出来ること、じゃなくて、出来る量やレベルで比べてしまうのか…冷静に考えられるようになったの昨日です。
マニュアル作る力とかけられる熱意モチベとかで争うと、私が勝ってたかもフフフ。そう考えられるのもまた、今だから、だけど。
得意なことって、まあ、自分の中では「ふつーだよ?」になっちゃう。今日の仕事マニュアル作りだけでいいんですか?8時間?マ?ラッキーラッキー今日は楽しそう。って、それが私の中では当たり前な感情でも、ほかの人から見たら「よくそんな出来るね」ってね、そういうね。逆にあの人すげえなーって思って話しても「え、そうかな?」って返されることもあります。謙遜もあるかもだけど割と、本人の素直な反応なんだろなーって思ってます。
あの子のふつーと私のふつーはちがうのに、都度都度、出来る量で比較するのはもう癖になっちゃっている。私はあの人ほど、推しに貢げていない、しくしく…。私があの子に出来ることは少ない、あの人が10貢いでるのに私は4貢げているかどうか…。って感じ。生生しくてわかりやすかったかな。
「出来ること」で比較していたならば、「私はあの子をイメージしたイラストを簡単になら描けるかもしれない、あの人には出来ないかもしてない、そうなると私にも出来ることはあるかも」って、いい方向に心が持っていけるかも。
そういうほうに考え方をシフトしていきたいが、なかなか難しいね。
瞬間で劣等感抱いちゃうから。「隣の人の方がバグ見つけるの早い、なのに私は全然」
「あの人売り上げ計算早い、私超遅い」。絵でもこうなるの、「あの人めっちゃ絵がうまい、私なんか全然だめだようまく描けないよ」ってもっとめんどくなると「あの人絵は描けないよ~って言ってるけどホントかはわからん、だが推しにめっちゃプレゼントしている。私今絵をかけたとしてもへなちょこだし、増して全然推しにプレゼントできなかった、つら」ってなる。増して、ってのはもうほんと謎。
なんか一種の病気のように良くない方向で考えちゃうのがあるわ、つらたん。
----ここから副題:自分にとっての当たり前とほかの人の当たり前--------
そういえば小学生の頃にボランティアしない同級生に腹を立てたときに、担任の先生に呼び出されて、「あなたが当たり前に出来ることでも、ほかの人にとってはそうじゃないことがあるから、もう押し付けないで」って指導されたことがあります。で、中学校にあがって全く違う担任にある日呼び出され、心当たりなんもなく、で、言われたことは「謙虚になりなさい」その一言だけだった。相当、アレだったんだろうな私。今でも私には謙虚さはあまり身についていないと思う。笑
身近な目標として、自分に出来ることは当たり前じゃないんだっていうことを語れるようになりたい。私がふつーに出来ると自分で思っていることでも、生育環境がよかったからとか、たまたま向いていたとか、向いていると気づけたバイトをしていたとか、出来るように勉強したゼミがとってもいいゼミだったとか、あとは私の努力も、含まれている。こんなにいっぱいの人、場所、恩恵を受けて私の「ふつー」が出来ていることを忘れないようにしたい。
あと、生きづらさ研究会では、自分にとってふつーだよ?っていう話も聞いてもらえるんですけど、「え、それはふつーじゃないと思うよ…?」とか「なんでそれがふつーなのさ」とか言われることがあって、そこで「そういわれれば…何故なんだ?」って考えさせられる機会も頂けてて、なんかほんとありがとうございますほんと…。