めんへらるんるん【日刊】

がちめんへら女子を合法観察できる日刊ブログ

怒りのパワーって変換先が限定されてる

怒りのパワーって絶大。普段やらないようなことをしでかしたり、後悔するようなことをしでかしたり、馬鹿力出たり。

 

PMDDになってからか、まあ、もしくはもっと前からか、かなり「怒りパワー」が満ち満ちている期間がある。で、こうやって勝手にいつの間にか生まれてくるパワーをどうにか変換して生活に役立てようと思っても、その変換先はかなり限定されてしまう。最近のソシャゲでいうと、有償石と無償石みたいな感じで、怒りは無償石。用途限定。

 

生活に役立てたいとは、具体的には僕は読書したいとか部屋の整理整頓したいとか、のんびり写真を撮りに行きたいとか、そんな感じ。だけど怒っているときって頭が冷静じゃないからこれがぜんっぜん出来なくって、せいぜいTwitterやブログに気持ちぶちまけるとかそのくらいしか出来なくて、怒りパワーが出た後はかなり疲れる。怒りパワー燃費悪い。

 

そうだ!体が動くんだから運動しよう、これは生活に役立つぞ!・・・と思っても、怒りパワーがすごい時って自分のセンサーもすごくビンビンで、無理だった。運動しに外に出ても、歩きたばこ見かけたり子供を放置する親を見かけたりとか、そういうことにすっごく敏感になってマシマシで疲れた。いつ爆発するかわからん爆弾が歩いているみたいなもんだし、自分も他人も誰も、爆弾をお外で散歩させようとか思わんよな。なので、家でできる運動をしようと思っても、また「なんでここにゴミ落ちてる、あそこにも、爆音バイクうるせえええコラアアアア」って感じで、ダメだった。めちゃ疲れた余計に。

真面目さもやっぱり捨てられないし、変なプライドもあるので、クレーマーにはなりたくない、家族に八つ当たりするのもやだ、落ち着け自分引きこもるしかないという流れになって、でも部屋に寝っ転がってても怒りパワーは無駄に沸いてきてセンサーも無駄に過敏で疲れてしまう。なんかいい怒りパワーのやりどころというか変換先というか、そういうのを見つけたい。

毎日ブログを書きたいメンヘラのための「楽になる」追い込み戦法

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毎日ブログを書こう、更新しようと思ったときにまず僕がやったことは、「Twitterのプロフィールにブログ毎日更新と表記すること」です。

 

twitter.com

自分の中で、ネタ以外で嘘をつくのには罪悪感があります。その罪悪感に苛まれながらツイートしたりプロフ修正するくらいなら、なんか記事書いて楽になれや、っていう追い込み戦法です。モチベーションづくりのひとつ。

 

なので僕は、強制ではないけど、やると自分の心が楽になるように組んで追い込むという方針です。

 

「ブログ書かないと寝てはいけない」というルールで毎晩書いているブロガーもいますが、僕にはメンタル豆腐なので無理だと思いました。病みそう。軽率に病むわ。とにかく義務感が強く仕事感が強い。で、その義務を課せているのは自分、病んだ時にはこれが「意味不明・・・まぢやみ。。。」になってしまうと感じました。

なので別のアプローチとして、自分のプライドとか罪悪感とかに目を向けて、「義務感ではなく自分の心が楽になるため」・・・そういう方向性でやってます。

具体的な話として、僕の話にはなりますが。

僕のやり方は、義務感は薄くなります。毎日書きますという証明書とか契約書を出しているわけではないですし(今は)。でも、僕のツイッターを見て、毎日ブログ更新って書いてあるけど、「やってないやん」。これで離れていく人もきっといるから、その中にチャンスがあったかもしれないんだから、なるだけ嘘は避けよう。っていう自分の心へのポジティブな働きかけ、って感じです。そんで、ブログを書いたら「今日も嘘はつかなかった」という安心感に、「今日もブログを書けた」「なにかここから発展するといいな」というイイ感じのメンタルになる。つまり、「ブログを書いたら自分の心が楽になる」というのが狙いです、僕の追い込み戦法は。

 

そろそろ毎日更新2か月目を迎えます。だいぶ習慣化してきました。帰宅したらパソコンの電源を付けるルーチンが出来上がりました。

で、ここまで、この「自分の心に訴えかける追い込み戦法」はけっこう上手く行きました。自分が不安障害を持っているから、余計に「嘘ついちゃったら・・・」っていう不安感がデカかったし、ブログを書くことが義務ではなく「自分の心が楽になる」という持っていきかたなので、思っていたほどメンタル負担ないです。

 

ちなみに僕は、あんまり関係ないかもですが、宿題は夏休みラストに追い込まれてから一気に片付ける派でした。元々追い込み戦法に適性があったんじゃないかな。とも思います。

 

とりあえず何かを継続してやりたいと思ったら、それをやることで自分の「心の報酬」が得られるように、適度に追い込むのもアリですね!という話でした。

 

絵を描き始めるまでがおっそい

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絵を描こう、描かねば、と思ってからパソコンを立ち上げてペンタブ繋いでペン持ってソフト立ち上げて下書きを始めるまでが、めちゃくそ遅い。パソコンが重いんじゃなくて僕が。

 

髪さえあれば落書きをしていたイラスト友達も多くいましたが、昔っから僕は、アナログだろうがデジタルだろうが描き始めるまでが遅かった。1人部屋で描けるようになってから若干マシになったけど、僕の落書きを見た周囲の人がなんて思うかが怖くて。創作物にまでそんなに周囲を気にしていたら果たしてそれは創作なのか?自分の世界を表現しきれているのか?という気持ちにすらなってくるけど。今はそのへんも大分よくなった。

 

だから、紙とペンがあればすぐ描いちゃうよ~って人がすごく素敵に見える。絵こそ描かなきゃ何にもならないから。すごい。

細かいところはどうでもいいから、まず、作れ!精神

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・・・学生時代に教わって、僕も意識しているのです。いいから、まず、作れ。

 

やる前から細かいところを気にしても始まらないと。改善点とかアイデアとかは、おおざっぱに出来上がったものを見ながらじゃないと出来ないだろ、と。

 

確かに、無からアイデアを出すのってムズカシイ

 

例えば、例えばです。キャラクターを作ろうというアイデアがあったとして、5人くらいで集まったとします。人にするか動物にするか、どんな色でどんな性格か、性別は、方向性は、それも決まっていなくて、これから決めようとするとき。

 

5人で白紙を囲んで、さあ、考えようか。ってなったとき、どうです?会議、捗りそうです?

おそらく、「どうしたもんかね」タイムが結構な割合を占めるんじゃないでしょうか。

 

では、例えば10個くらいのキャラクター案があって、ラフだけど絵があります。それが書かれた紙を同じく5人で囲んで、さあ考えようかってなったときは?

おそらく「これはいい」「これは違うからナシ」「なるほど」「そういえばアレもいいかも」っていう話し合いにスッと入っていきます。

 

白紙を囲んだ時と、おおざっぱだけど出来ている案を囲んだ時。どっちのほうが会議の効率がいいか、どっちのほうがよりブラッシュアップできるか。クオリティの高いものが出来そうか。

・・・後者なんですよね。これが「細かいところはどうでもいいから、まず、作れ」精神が生きるときだなと感じます。

 

案を作る事になった人も、不安ですけどね。たたき台です、名の通り。叩かれていくもんだって割り切ってまずやるしかない。それで捗るなら、貢献出来てるってことで・・・。

診断書付きメンヘラになっても、真面目を捨てきれないつらさ。

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メンがヘラりました。ほぼ強制的に病院送りになり、診断書付きメンヘラになり、薬を飲みながらの通院ライフが始まりました。

 

自傷をしたり、好きな人のSNSをひたすら追っていたり、部屋がゴミ屋敷のように荒れたりもしました。でもそれは全部「ほかの人から見えないし咎められない範囲」でした。

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親友がいることに確証は持てないけど、恋人がいることには確証が持てる。

親友と呼んでいいくらい、長く仲良しな友達はいるんだけど、その子も僕のこと親友だと思ってくれているのか?

自信が無い。周囲に親友だね~って言われてるわけでもないし、ふたりで確認し合ったわけでもない。(仲良しさに自信が無いってことじゃなくて、自分自身に自信が無いから、そっちの理由でね。)

 

ちなみに、恋人はいるし付き合っている。これには自信があります。お互い好きになって付き合ってる、って。じゃあなんで親友がいることに自信が持てないのか?

 

付き合っているってことには、「おつきあいしている」っていう事実があって、そのことを知っている周囲の人もいます。認知されているってことです。で、おつきあいを始めるには告白という儀式があって、別れるには別れようの儀式がある。(おつきあい中に、ほかの人とおつきあいすることになったら、別れようの儀式を経てきちんと別れないと浮気になってしまう。)なので、証拠になるポイントっていうのがあるんですよ。だから自信持てる。付き合っていることはちゃんと事実なんだって思える。

一方親友は、親友になる儀式もなく、ただの友達に戻る儀式もなく、周囲の人に「親友である」という事が認知されているものでもない。もし周囲の人が、「みなとと○○ちゃんは親友だよね」「あの子と親友じゃなかったっけ?」って認知してくれていたら、自分には親友がいる!って自信を持って言えると思います。でも実際そういう事って、ないな。少なくとも僕には。

 

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もしも、親友にもそういった、親友になる儀式や周囲の認知があれば、恋人と同格として扱われる世界だったかもしれない。

 

牧場物語コロボックルステーションforガール というDSのシミュレーションゲームがあるんですが、このゲーム、特定の女の子同士で結婚と同じようなことが出来ます。「大親友になる」が「結婚する」と同じような扱いなんです。

恋人になって、プロポーズして、結婚式をして、一緒に暮らして、子供が出来て、っていう流れを、「大親友」とできるんですよね。

まず仲良くなって、イイ感じになって、親しくなったら女の子にあるアイテムを渡して告白する。そしてOKがもらえたら「大親友」になる。泉の前で2人(と神様)で誓う。その後は大親友と一緒に暮らす。子供は神様が授けてくれます。そして2人で子育てをしながらずっと暮らしていきます。

ゲームのシステム的にも、結婚している状態と同じ状態になります。なのでもう他の人とのデートイベントは発生しなくなります。季節のイベントにあわせて料理を作って家で待っててくれたり、ふたりの記念日を祝ったりするのも、おんなじ。

 

恋愛感情がわからない、なぜ異性と恋して結婚するのが当たり前とされているのか、「親友じゃダメなの?」というツッコミに対して、親友でええやんっていう世界ですね。やっぱり儀式とか周囲の認知とかはキーなのでは?

 

と、生きづらさ研究会の記事を読んでいて考えた次第です。

 

aroman.hatenadiary.jp